鎌倉 幕府 の 滅亡

Add: dumoqyr56 - Date: 2020-12-11 14:10:07 - Views: 8326 - Clicks: 7202

Amazonで秋山 哲雄の鎌倉幕府滅亡と北条氏一族 (敗者の日本史)。アマゾンならポイント還元本が多数。秋山 哲雄作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 鎌倉幕府における統治体制の変遷を追うのに適した良書だ。 タイトルは幕府滅亡だが、幕府成立時から丹念に推移を追ってくれている。 数々の内部抗争を経て、徐々にその統治体制が変質していくのを見て取れる。. 。 元の襲来でかかった費用(食費や武器代)は全部自分持ちだからね。 そして御家人たちの生活が貧しくなったのはもう1つ理由がある。 それは武士の分割相続だ。 分割相続とは、自分が所有する土地を子供たちに分割して相続させるというもの。 でもそんなことを代々進めていくとどうなると思う? 1人あたりの相続する土地がだんだんと少なくなってくるよね。 まだ幕府が作られて間もないころは、国内に敵がたくさんいた。 そして、その敵の土地を御恩として幕府から新しく与えられたことでまかなっていくんだけど、幕府の支配が全国に及ぶとそれも難しくなっていった。 そんな時に元寇というトドメだ。 元寇はモンゴル兵を追い払っただけで、幕府が手に入れた新しい土地なんてなかったからね。 鎌倉 幕府 の 滅亡 では、御家人たちはどうしたのか。 自分の土地を担保としたり売り払ったりしてお金を借り、生活の足しにしていたんだ。 このころは貨幣(お金)が全国に流通しており、経済の中心は物々交換から貨幣をつかって売買するという方法に代わっていたんだ。これも御家人の生活を苦しめた原因の1つだ。 もちろん、幕府も御家人の生活を救おうと必死で考えた。 御家人たちの不満が幕府にむかっていたのも気づいていたからね。 このままでは幕府の存続も怪しくなってしまう. 鎌倉幕府滅亡の語呂合わせ① 鎌倉幕府、悲惨(13)な財政、ササ(33)と逃げる. See full list on social-line. 最後に土地と金の話を少しだけ。 悪党の傍若無人な振る舞いと、それと取り締まろうとする幕府の動きは、見方を変えると「お金の力で生きる悪党」と「土地の力で生きる幕府」という関係で捉えることも出来ます。 鎌倉幕府は、御恩と奉公つまり「土地を安堵する代わりに、俺の言うことを聞いてくれよな」という関係で初めて成り立つ政治機構です。土地を仲介に、人々を服従させていたわけです。 そして、鎌倉幕府のこの仕組みが成り立ったのは、人々が土地を持たなければ生きていけなかったからです。お金の普及しない時代において、生きる上で最も重要なのは土地。人々にとって土地が最重要である限り、幕府は権力・権威を誇示して、天下を治めることが可能でした。 鎌倉 幕府 の 滅亡 ところが、宋銭が大量に日本に流れ込んだことで人々の価値観は変わってきます。特に交易が盛んだった畿内周辺はその傾向が著しくて、「土地に頼らず金で生きる」という新しい価値観が生まれました。 新しい価値観を見出した人々の多くは、お金の重要性を理解していた人々や土地を持たない貧しく虐げられていた人たちでした。 当時のお金は、権力者の管理の及ばないもので、暗号通貨的に言えば「非中央集権的」なもの。一方の土地は、幕府が支配する「中央集権的」なものと言えます。. 幕府の財政難に御家人も逃げ出しました。 鎌倉幕府滅亡の語呂合わせ② 元寇で幕府の遺産(13)は散々(33)だ. 鎌倉幕府はなぜ滅亡することになったのでしょうか? 今回はそんな『鎌倉幕府の滅亡の理由』や、鎌倉幕府滅亡後についてわかりやすく解説していきます。 鎌倉 幕府 の 滅亡 まずは滅びる前の鎌倉幕府。その誕生までの歴史を見ていきましょう。.

こうして幕府と御家人たちの関係が悪化していくと各地で悪党と呼ばれる人々が目立ってきた。 悪党は幕府に従わず地元の農民たちを率いて荘園領主の年貢を奪ったり土地を奪ったりしていたんだ。 幕府の初期にも悪党たちはいたんだけど、幕府はそんなに問題視しておらず放置していた。 でも永仁の徳政令の失敗のあと、御家人の中からも悪党になる人が出てきて幕府も無視できなくなってきた。幕府の力が弱まっていた証拠だね。 こうして幕府が悪党たちの対応に追われ、バタバタと混乱していたとき. 鎌倉時代は、「御恩」と「奉公」の関係で成り立っていました。そもそも御恩と奉公ってなに?ってなりますよね?御恩とは、将軍(主人)が御家人(従者)へ与えた利益を御恩、御家人が将軍へ与えた利益を奉公といいます。 具体的にそれぞれの利益ってどのいうことか?それは、幕府のために戦ってくれた武士に褒美として「土地」を将軍は与えていました。逆に、御家人たちは土地をもらっていたので、がぜん「この人のためならがんばれる!」と忠誠心を持っていたのです。 長らく御恩と奉公の関係で、鎌倉幕府は成り立ってきましたが、武士といえども長期政権となると徳川と同じように中だるみで「貴族化」してしまうのです。将軍にはなっていませんが、平氏もそうですよね。だんだんと主従関係が崩れ始めていました。 鎌倉幕府の初代将軍は、源頼朝ですが源氏直系は三代目で途絶えているのです。頼朝の長男で二代将軍・頼家、次男で三代将軍・実朝ともにお家騒動に巻き込まれ、暗殺され、四代目以降は、公家の九条家や天皇家の親王などが代々将軍の座につきました。 すると、今までは補佐役だった頼朝の妻・政子の実家の「北条氏」が実権を握ってしまいます。当然将軍は名前だけのお飾りに。 そんな中、「元」という国が日本へ攻め入ってきたのです!「元」というのは、現在のモンゴルを中心とした国家で、西は東ヨーロッパやトルコ、東は中国や朝鮮半島、南はアフガニスタンやチベットなど広大な大帝国でした! 朝鮮半島を統一し、海の向こう側「日本」が気になり始めます!「日本も手に入れたい」と第5第皇帝の「クビライ」は思うのですね。 元は朝貢といって、貢物を外交使節団に持たせて日本へ派遣させます!まずは、貢物から貿易を始めて、ゆくゆくは元の支配下にする。このようながあったと思われますね。 ところが、鎌倉幕府は頑としてこれ拒否!御家人と強い主従関係に結ばれていた幕府には怖い者などいなかったのです。. 摂関・院政を停止し、 2. まあ、鎌倉幕府自体の記録がテキトーになっていた頃ですから、他の記録が乏しくても仕方のないところではあります。 日蓮宗にとっては、自分たちの宗旨をアピールしたり、後世に「だからウチはスゴイし正しいんだよ!. ここでは同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。 北条氏得宗の専制政治. ここに記載した事柄以外にもたくさんの出来事があり、そのどれもが鎌倉幕府滅亡の結果に繋がるきっかけとなっていったのでしょう。 どの時代にも良い政治と悪い政治は存在し、この歴史は繰り返されていきます。 ちなみに、鎌倉幕府の滅亡までの151年間の間に何度年号が変わったのか調べたところ、55回も変わっていました。 朝廷の歴史も、激動なものだったのが伺えますね。. 1274年、鎌倉幕府に突っぱねられた元はついに大軍の船で博多湾に上陸!ついに「元寇」が起きます!そもそもこの「元寇」という言葉は後から付けられた言葉で、当時は「蒙古襲来」といわれていました。そういえば、亡くなった私の祖母もモンゴルではなくずっと「蒙古」と呼んでいましたね。 世界の4分の1を支配していた大帝国の元と小さな島国の日本。どう見ても日本の勝ち目は薄いですよね?しかし、九州の御家人たちが一応近々来るのではと防波堤を築いていました。そして両者は海岸で激突します!当時の日本の戦の仕方は一対一の「一騎打ち」が基本でした。「拙者は」とか挨拶から始めて、馬上からの斬り合いでした。しかし相手は外国の元です。挨拶とかしているうちにバンバン矢とか手りゅう弾が飛んできます! 大敗した九州の御家人たちは、一時大宰府へ逃げます。その間、突如「神風」が起きて元の大軍は慌てて帰ってしまうのです。ここからの日本の「神風神話」が誕生するのです。けれども本当に「神風」で元が帰ってしまったのでしょうか? 私は神風ではなく、「場所」と「季節」が関係しているのではと考えました。博多湾に上陸したということは、海は玄界灘です。九州の方はご存知だと思いますが玄界灘は荒れることで有名です。そこへもって、時期が11月中旬。寒冷前線が来る季節。海が荒れに荒れて、大破する船が続出します! 結局、日本は場所と季節に助けられた感がありますね。九州の御家人たちは事なきを得ます。その間幕府はなにしているのよって感じですが。笑 一度は引き返した元ですが、なんとしても日本を手に入れたかったので、またも上陸します。笑 前回失敗を教訓にした日本は、高さ2メートルに渡る防波堤を海岸線に作ります。防波堤を作るのも御家人の仕事。ご苦労様ですと言いたいですところですね。 元も考えます!季節を5月に変更し、二軍に分かれてやって来ます!モンゴルと高麗の「東路軍」と、元に降伏した南宋の「江南軍」でした。 東路軍が先に博多湾に上陸しますが、前回とは比べ物にならない防波堤がありました!今度は叩きのめしてやると、御家人たちは獅子奮迅の活躍を見せ、東路軍はなかなか船から陸上に降り立つことができません。 一方で、南宋の人間で結成され、今の中国の長江側から江南軍は一向に現れません。もともと無理やり戦わされている軍だから士気が低いのです。 そして、. 後醍醐天皇は、 1.

これに対して、大覚寺統は鎌倉幕府に反撃を始めます。 1. 鎌倉時代の日本は宋と活発な交易が行われていました。日本と宋の交易は日宋貿易と呼ばれ、その本格的な始まりは平清盛の時代までさかのぼります。 日本が宋に輸出していたのは、金や真珠など高価な物が多かったため、大量の宋銭が日本に流入しました。この宋と日本との活発な交易活動は、宋を潰したい元軍が日本を標的にした理由の1つとも言われるほどです。 そして、宋との交易の拠点であった西日本では次第に貨幣を使った物の売買が広まっていったのです。 お金っていうのは、とにかく便利でした。というのも、お金さえ持っていればそれをいろんな物と交換できるからです。当たり前にお金を使っている私たちにはピンときませんが、当時としてはとても革命的な出来事だったのです。 鎌倉 幕府 の 滅亡 例えば、物々交換だと米を持っているウサギさんが、クマさんの魚を買おうと思っても、こんなケースが想定されます。 でも、お金があれば絶対にこんなこと起こりませんよね。 これはちょっと茶番すぎますけど、実際にこんな感じだったのだろうと思います。 宋銭は爆発的に普及して、税を金で納めるケースまであったようです。お金が普及すると、荘園の中では市場が開かれ、農民たちはお金で売買をするようになりました。 すると、これまで生活と納税のために稲作しなければならなかった人たちが、次第に稲作から解放されて、その地域あった特産物を作り始めます。なぜ特産物かというと、そっちの方がお金になるからです。税も稲も金でなんとかなるなら、自分で稲を育てる必要もないわけです。 農民たちが自力でお金を手に入れるようになると、次第にこれまで農民を抑圧し続けていた領主に対する反発も強くなっていきました。 こんな感じで、これまで領主に虐げられていた庶民が、貨幣経済の波での中で稲作以外の選択肢を得て自立し始めると、既得権益層に強く反発するようになり、これが悪党を生んだ要因の1つになります。 そして、貨幣経済で力を手に入れたのは農民だけではありません。数字に強い人たちは、高利貸しをして大儲けするようになります。この「数字に強い人」がどんな人だったかというと、これまで大規模な荘園を経営してきた経営者が多かったようです。 大規模な荘園を持つ代表的な組織は東大寺や興福寺です。これらの寺院は、僧であるにも高利貸しを始める輩まで現れたのです。 高利貸しをするには、高い利子で金を借りてくれるカ. See full list on nihonshi-yururi. 彼をきっかけに、鎌倉幕府は滅亡へ。 後醍醐天皇はそれまでの院政を廃止し、天皇親政を開始。政治の中心機関として「記録所(きろくしょ)」も再興。 ”後醍醐”という名前から伺える、「醍醐天皇(だいごてんのう)」へのリスペクト。平安時代、摂関をおかずに天皇自ら政治を主導(親政)した「延喜の治」で知られる、醍醐天皇の時代を夢見ます。 そして彼は、討幕(幕府を攻め討つこと)を計画。 1度目の計画は、幕府にバレました。 これが1324年「正中の変(しょうちゅうのへん)」。このとき、天皇は処罰されず。 2度目の計画も、幕府にバレます。 幕府軍に御所を囲まれましたが、後醍醐天皇は女装をして脱出。 が、結果は敗北。後醍醐天皇は隠岐島に流されました。楠木正成は姿をくらましたのだとか。 1331年「元弘の変(げんこうのへん)」です。.

鎌倉幕府の滅亡 1333年。幕府の衰退につけ込み後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は何度も失敗しつつも遂に鎌倉幕府を滅亡させました。 では、その鎌倉幕府の滅亡の過程を少し詳しく見ていきましょう。. See full list on iineiineiine. 建武の新政はこのようにして終わりを迎えまして、南北朝時代に突入していきます。 京都には足利尊氏を支持する「持明院統の北朝」 奈良吉野には後醍醐天皇の「大覚寺統の南朝」 南朝と北朝が対立しあう、約60年間にも及び南北朝時代が始まるのです。. もはや六波羅探題だけでは対応できないと判断した幕府は、再び大軍を京都に派遣することを決定します。大将軍は名越流北条高家と足利尊氏でした。 今回の派遣も、後醍醐天皇が笠置山に立てこもった元弘の変と同様に、承久の乱の先例が意識されたと考えられます。. 鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、鎌倉時代の日本の武家政権。 同幕府が存在した約150年間を「鎌倉時代」と呼ぶ。 のちに征夷大将軍となる源頼朝が創始し、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。. 新田義貞の本拠地は新田荘と呼ばれ、今の群馬県と埼玉県の県境あたり(猛暑で有名な熊谷市からちょっと北西に行ったあたり)にありました。 新田義貞はここから南下して鎌倉へ目指します。新田荘を飛び出した当時はわずか150騎だったと言われています。 わずか150で鎌倉に攻め込むとは無謀に感じるかもしれませんが、新田義貞が鎌倉へ向かっている途中、鎌倉幕府に不満を持つ者が次々と新田義貞の味方となりました。 同じく寝返った足利尊氏の嫡男だった足利義詮(あしかがよしあきら)と合流すると、味方は一気に増え、兵力は20万にもなったと言われています。足利尊氏と新田義貞、それぞれ単独で挙兵したわけではなく、詳細は不明ながらも連携があったのでしょうね。 大軍になった新田義貞軍は、その後も度重なる戦いで連戦連勝。 あっという間に鎌倉付近まで接近することになります。. . 最後は、新田義貞です。正成や尊氏の戦は、主に日本の西側ですよね?じゃあ東側はどうなのよと。尊氏が六波羅を攻めていたころ、関東の上野(現在の群馬県)の新田荘を取り仕切っていた御家人が義貞でした。もとは源氏の源義家の流れで尊氏とは親戚関係にありました。 義貞は、最初幕府側として、あの正成がゲリラ戦など展開した千早城の戦いに参戦していましたが、幕府の勝ち目はないと確信した義貞。その間、後醍醐天皇が全国の御家人たちに「共に幕府を倒そうではないか」という綸旨(天皇の言葉が書かれている公文書)を出していたことを知ります!早々に、仮病を装い戦線離脱した義貞。笑 尊氏同様、義貞も幕府から虐げられていたのですね。地元に戻った義貞でしたが、軍資金調達のため、幕府が土地の税金をがっぽり持っていこうとします!誰だって怒りますよ。 抵抗する新田荘の家臣たち。ついに幕府の徴収人を殺してしまいます。こうなったらもう泥沼。幕府は領地没収を決定します。これが義貞の挙兵の決定打になるのです! 義貞にも後醍醐天皇から綸旨が届き、ついに倒幕の意思を固め挙兵するのです!上野から利根川を渡って武蔵(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)に入った義貞一行。 尊氏の六波羅探題攻め成功によって、人質に取られていた尊氏の嫡男・千寿王(後の義詮)が家臣たちによって鎌倉から脱出に成功し、義貞一行と合流しました。さぞ若武者と思いきや、この時千寿王はまだ四歳なのです。笑 尊氏が29歳、義貞が33歳と父親世代がまだ若い。つまり、お飾り的要素があったのです。あの六波羅探題を倒した尊氏の子息がいるとなると、関東周辺の武士たちが続々と義貞軍に合流。2万以上の大軍となったのです! 勢いづいた義貞軍は、小手指原の合戦、久米川の合戦、分倍河原の合戦と次々に勝利を収めます!挙兵して、わずか10日ほどで、藤沢あたりまで迫ります!深く険しい道が続くので、義貞軍は三手に分かれます。大舘宗氏を大将にした大舘軍を右から極楽寺坂へ、堀口貞光を大将とした堀口軍を左から巨福呂坂へ、自身は中央から化粧坂へ向かいます。 しかし、宗氏が幕府軍に攻撃にあって無念の戦死。大切な仲間を失った義貞。より一層倒幕に燃えます!義貞はとうとう幕府軍を追い詰めます!観念した執権の高時は自害。北条一族200人もが後を追って命を絶ち、150年に渡る鎌倉幕府は幕を閉じます。 直.

当時の「幕府」とは将軍の御所を指します。頼朝が鎌倉にて構えた御所は大倉幕府(又は大倉御所)です。 頼朝が死去した後も、息子の頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)はこの場所で政務を行っていました。 実頼が暗殺され、頼朝の遠縁に当たる藤原頼経(ふじわらのよりつね)が第4代将軍となった際に、新しく宇都宮辻子(うつのみやずし)幕府を御所としました。 その後も新たに若宮大路(わかみやおおじ)幕府を御所に移しましたが、ここが鎌倉幕府滅亡までの最後の御所となりました。. 将軍はまったくの傀儡ですので、北条氏得宗家の滅亡は、そのまま鎌倉幕府の滅亡となりました。 幕府の滅亡は、得宗専制に対する不満が予想以上に大きく、それが後醍醐の皇統継続の無謀な行動によって火を付けられたためでした。. 二人目は、楠木正成です。後醍醐天皇が隠岐の島へ流された後、各地で続々と討幕運動が盛んになっていきます。これは、後年の徳川幕府時の幕末と似たところがありますよね。 鎌倉から遠く離れた河内(現在の大阪府あたり)の御家人だった楠木正成。正成は、弘元の変のとき最初の挙兵をしますが、幕府軍に敗北。その間、後醍醐天皇は隠岐の島から脱出に成功し、出雲(現在の鳥取県)の豪族・名和長年にかくまわれます。 そして、出雲の船上山で各地の御家人たちに、鎌倉幕府は朝敵であると宣言し、通達するのです。後醍醐天皇の宣言を聞いた正成は再度挙兵します。 正成は、田舎武士らしくゲリラ戦や崖から石を投げる攻撃などを展開。幕府軍を苦しめました。この正成の活躍に触発され、赤松円心など有力御家人たちが挙兵したのです。. . See full list on yarukichugakusei. 鎌倉幕府滅亡の理由、まず 1 つ目は分割相続による所領の細分化です。 鎌倉時代は分割相続がメジャーでした。 これは父の死後、父の所領は嫡子や庶子問わず、子供たち全員に相続されるというものです。. ところで、荘園領主の立場に立ってみると、悪党より何より最も邪魔だったのは鎌倉幕府が各地に置いた地頭の存在です。 「じゃあ、地頭も悪党なの?」と思うかもしれませんが、これは悪党とは言いません。何故なら、地頭の荘園への侵略は幕府の権力を背景に「合法的」に行われたからです。 地頭の荘園支配は、「荘園領主の代わりに徴税や土地の管理を手伝ってあげるよ!(と見せかけて、土地の実効支配権を全部奪うことも・・・)」という建前の元で行われましたが、これは悪党ではないんです。 これだけが理由ではないかもしれませんが、そんな理由もあって悪党が盛んに現れたのは畿内が中心で、東国では多くは登場しません。東国では地頭の力が強かったので、幕府の支配外の第3勢力ができる余裕はありませんでした。. 承久の乱では朝廷の倒幕軍を返り討ちにした鎌倉は、後醍醐天皇による倒幕計画も二度までは防ぎましたがいよいよ最後を迎えます。新田義貞らに攻められ、東勝寺において北条一族は滅亡します。 鎌倉幕府陥落、北条一族滅亡。.

こうして、戦場となった鎌倉の市街地の様子は凄惨を極めました。火で覆われる鎌倉、逃げ場を失って次々と新田軍に討たれる兵士たち、そして逃げ遅れ倒れている女子供のその姿。鎌倉は、まさに地獄絵図そのものとなったのです。 鎌倉 幕府 の 滅亡 新田軍の方が兵力では優っていますから、どこか1箇所でも鎌倉侵入を許してしまうと、どうしても幕府軍は脆かったのです。 火は北条高時邸にも及び、北条高時は一族を引き連れて北条氏の菩提寺だった東勝寺に避難します。菩提寺とは、亡くなったご先祖を弔うお寺。菩提寺に逃げ込んだ時点で、もう死亡フラグが立ちまくってます。 既に多くの者が運命を悟る中、長崎高重(ながさきたかしげ)という人物が一矢報いんと最後の特攻を試みました。 長崎高重は150騎を引き連れ、笠印(かさじるし。敵味方を見分ける目印のこと)を捨てて、敵の総大将である新田義貞のもとへ向かいます。笠印を捨てたのは敵である事を隠し新田義貞に近づくためです。 しかし、これは失敗します。そもそも笠印を付けていない事自体が怪しいのです。気付かれてしまえば、敵に囲まれた長崎高重は逆に袋の鼠です。150騎で新田義貞めがけて捨て身の戦いをしますが、生き残ったのは8名のみ。 特攻に失敗し、東勝寺に戻った長崎高重は北条高時に最後の戦況報告を行い、「まずは、私が切腹の手本を見せようぞ!」と北条高時の前で壮絶な死を遂げることになります。 その後、みんな次々と長崎高重の後に続き、遂には北条高時も自害。こうして約150年続いた鎌倉幕府は遂に滅亡してしまったのです。 1333年5月22日、新田義貞が挙兵してからわずか2週間後の出来事でした。 極楽坂を守っていた大仏貞直は、戦地から北条高時邸が炎上しているのを見て多くの者が自ら命を絶つ中、 「(自ら命を絶つ行為は)日本一の不心得者のすることだ。千騎が一騎になったとしても、敵を倒し続け後世に名を残すことこそが、武士の誉である。そうであるならば!潔(いさぎよ)く最後に一合戦を交えて後代の者に義を伝えようではないか」 と言って、わずか250騎余りで敵陣へ特攻。新田義貞の弟の脇屋義助の大軍によって全滅。 化粧坂を守っていた金沢貞将は北条高時のいる東勝寺に戻り、これはもう1日とて耐えきれないだろうと悟ると、「我が百年の命を棄て、君(北条高時)が一日の恩を奉ず」を紙に残し、敵陣へ特攻し朽ち果てました。. 元寇を境に、鎌倉幕府を統括していた、執権・北条氏の力のなさが徐々に露呈していきます。もはや、武士じゃなく貴族化していた北条氏。かたや、御家人たちはあれほど命をかけて戦ったのに、見返りはなし。案の定生活は苦しくなっていきます。生活に困窮し始めた御家人たちの中には、土地を担保にお金を借りる者たちが現れます。 幕府も鬼ではないので、貧しい御家人たちを救おうと考えます。「永仁の徳政令」というお触れを出します。内容は、担保に出された土地を無料で返却するように命令するものでした。 けれども、徳政令の効果は一過性のもので、逆に悪循環になってしまいます。土地を貸す側が、御家人に貸しても幕府が後ろ盾では貸したお金が返ってこないと、貸し渋るように。 せっかく、御家人たちを助けようした政令は裏目に出て、かえって反感を抱かせます。執権・北条貞時は、政務を放棄しアル中な生活を送るようになっていました。当然、政治の実権は側近たちのものに。 混沌とした時代の中、体たらくの幕府に反旗をひるがえす者たちが出現します!その中の一人が「後醍醐天皇」です。もとは武士なのに貴族化した北条氏に対して、天皇でありながら武士っぽいのが後醍醐天皇なのです。武士による政治が当たり前となっていたのを、もう一度朝廷が政治を行う「新政」を強く望んでいた天皇。 この頃、執権も北条貞時から息子の高時に代替わりしていました。高時この時わずか16歳。元服は済んでいたにせよ、現代で言ったら未成年で高校生ぐらいですよね。とうぜん政治の実権は、長崎円喜などの側近たちににぎられていたのです。 その間、着々と後醍醐天皇は、朝廷での政権を目指し「倒幕計画」を進めます!しかし、信頼していた家臣の一人・吉田定房が幕府に密告してしまい、計画は頓挫します。側近中の側近で、もとは花園天皇の蔵人(天皇の秘書的な役職)をしていた日野俊基が佐渡島へ島流しにされてしまいます。 それでも、後醍醐天皇あきらめないのです。意思が強いというかしつこいというか。笑 結局倒幕計画は「正中の乱」として失敗に終わり、辛くも京都を脱出。二度目の倒幕を試みた後醍醐天皇は、またも事前に計画が発覚してしまい、今度は自身が隠岐の島へ島流しに。これが世にいう「元弘の変」です。武士でなくあくまでも天皇なので、この辺の計画性が甘かったのでしょうか?. 後醍醐天皇が全ての最終意思決定を下したのですが、武家社会と公家社会のルールを無視したことから反感を買います。 鎌倉幕府の倒幕の功労者であった御家人足利尊氏でさえも軽んじた扱いをします。足利尊氏を新政権の要職に付けなかったのです。 北条氏に代わる新たな武家政治を確立させることが夢であった足利尊氏は、六波羅探題を滅ぼした頃から諸国の御家人たちから信望を得ていたのですが、 1335年に、鎌倉幕府の最後の得宗(とくそう)の遺児が鎌倉で反乱(中仙台の乱なかせんだいのらん)を起こしたときに、足利尊氏は後醍醐天皇の反対を押し切り、京都から鎌倉に攻め入り反乱を制圧します。 後醍醐天皇に謀反を起こした足利尊氏に対して、後醍醐天皇は攻撃を仕掛けたため、足利尊氏は九州にまで一時撤退しますが、 後醍醐天皇の大覚寺統と対立していた持明院統(光厳天皇)から公認軍として認めてもらい反撃に出ます。 遂に京都を選挙した足利尊氏は、持明院統の光明天皇(光厳天皇の弟)を擁立して武家政治を再興するのです。ちなみに1338年には足利尊氏は征夷大将軍に任命されることとなります。 京都を追われた後醍醐天皇は奈良県吉野に逃れ、我こそが天皇であることを主張しますが、建武の新政は終わりを迎えるのです。建武の新政は僅か3年ほどで終了したのです。.

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