大谷 探検 隊

Add: obakili84 - Date: 2020-11-29 00:34:45 - Views: 735 - Clicks: 2492

特別展「二楽荘と大谷探検隊」は入館者2万人を超えて閉幕! 来年1月8日まで展示替えなどで閉館いたします. 谷探検隊(1908~1910)1)のインド隊員の一人であっ た(挿1)。上原芳太郎が編集した大谷隊の記録『新 西域記』上巻(1937)に,「印度随遊小記」と題する 調査報告を寄せた人として,彼の名は,大谷隊の研究 者にはつとに知られていた。. 大谷探検隊の若者数名が入りまして、1896年に見つかったばかりのアショーカ 王の記念の柱、そこに調査のメスが入ったわけであります。この写真は、その 大谷探検隊若者数名と現地の協力してくれた人たちとの記念写真ですが、この 3.旅順博物館-大谷探検隊収集品 旅順博物館は、1917年に日本が大連を統治する関東都督府満蒙物産館として建築された。その後、日本自体のほか、ソ連および中国によって名称変更されたが、1954年に、旅順博物館として郭沫若氏揮毫扁額を掲げ現在に至っ. See full list on dsr.

大谷探検隊はあま り持って帰っていないんですが、ドイツ探検隊は素晴らしいマ ニ教関係の資料を収集していますね。 これはその一片です。 こ 大谷 探検 隊 こに赤いのがチョッチョッと付いていますが、絵が入るんですね。. 1890年、英国インド軍の命を受けてタリム盆地にやってきたバウアー大尉は、もともと古文書に興味を示すような人物ではなかったのだが、ある日、何気なく古文書を買ってみる気になった。彼がタリム盆地にやってきたのは、インド北部からタリム盆地へ入る際の常道だったカラコルム峠(1)(5570m)付近で1888年に発生した、「イギリス商人ダルグレイシュ殺害事件」の犯人捜査のためだった。おそらく彼は、捜査の途中で土産物を買うような軽い気持ちで、クチャの現地人から古文書を購入する気になったのだろう。ところが、彼がたまたま購入した古文書は、実はとんでもない掘り出し物だった。そしてこの掘り出し物が引き起こした衝撃は、全ヨーロッパから全世界へと広がり、やがて中央アジア探検という大きな時代の流れを生み出すきっかけとなった。 この古文書、実はインド古代のブラフミー文字で書かれたもので、英国のインド学者ヘルンレ(Hoernle, A. 大谷探検隊 西本願寺宗主・ 大谷光瑞 は、明治35年から大正2年にかけて3次にわたって中国聖域探検を行い、その名を世界に知らしめました。 大谷光瑞は、欧州各国が国家的規模の事業として行なっている敦煌などの仏教遺跡調査を知り、衝撃を受けました。. 本特別展では、仏教伝播の道とそこに花開いた東西文化交流の精華を、大谷探検隊が日本にもたらした貴重な資料を中心に据えて多角的に紹介します。 展示品の総数は210件を超え、うち、大谷探検隊関連品は初出品も含め124件におよびます。. 地理学者ヘディン(Hedin)の調査研究は、考古美術品の発掘採集だけでなく、地理、地質、気候、生物などの調査もした。1927年中国人学者、ドイツ、スウェーデンの学者から成る「西北科学調査団」を組織しエチナ河畔よりヘミ、トルファン、ウルムチに出る調査旅行を行った。彼はこの調査団に、中国考古学者、史学者を加えたことで他の探検隊とは違う意味をもたせた。 光瑞の心配は、仏教の豊富な遺跡が異教徒(特にイスラム教)によって次々と破壊されること、数千年以上も砂に埋もれていたアジアの文化遺産が、その貴重性もわからないまま発掘され、西欧へ持ち帰られる事だった。 また、他の国の探検隊が地理学や.

See full list on wpedia. 大谷探検隊の遺産は数多い。なかでも、世界をあるがままに見据え、どんな困難にも立ち向かっていく気宇壮大な精神こそ、大谷探検隊が現代人に遺した一番の遺産ではあるまいか。」 と、文章を結ばれています。. 大谷 探検 隊 jp2) 第二節 アスターナおよびカラホージャの発掘と大谷文書 / p26 (0017. See full list on kouseiji. 1)大谷探検隊の収集資料 旅順博物館に所蔵される仏典断片は、大谷探検隊が収集したものである。大谷探検隊は、後に西本 願寺第22 代宗主となった大谷光瑞師によって派遣されたもので、 1902 年から1914 年まで三次にわた. ~ 大谷 探検 隊 大谷地底探検と大谷エリア散策~ 年1月16日(土)ohya underground 午前コース> 年1月16日(土) 料金/ お一人様 8,500円/人(消費税込) 定員14名様⇒ コロナウィルス感染拡大状況により、随時減員する可能性がございます。 詳細はこちら. ヘディンが拓いた道をたどってタクラマカンの遺跡へ向かった最初の考古学者は、マーク・オーレル・スタイン(似顔絵(5))である。スタインこそ、ヘディンの探検を自己の探検調査にもっとも有効に活用し、その成果を挙げた人物に他ならない。「考古学的探検家」とも自称したスタインは、中央アジアにおいて考古学的な本格調査を初めて試みた人物で、砂漠に埋もれた遺跡の発掘という前例のない調査を手探りで進めていった。 スタインがヘディンの情報を活用した例は、第1回探検(1898~1900)におけるダンダン・ウィリク(6)の発見に見ることができる。彼は西域南道のコータンにおいて古都址ヨートカン(写真(7)、ヨートカン出土の塑像(8))を発掘しつつ、部下に遺物を購入させたり、遺跡に関する情報の収集につとめさせたりした。そして、土地の宝捜し人からダンダン・ウィリクと呼ばれている廃墟こそ、ヘディンが発見したあの「古代都市タクラマカン」に他ならないことを確信した。そうとわかれば、やるべきことは決まっている。彼はヘディン作成の地図に従って、迷うことなくそこにたどり着いたのだった。 他にもスタインがヘディンから得た情報. キマイラ・吼』(夢枕獏著)に、大谷探検隊に参加していたという史実に基づいて、登場している。 参考文献.

jp2) 第三節 大谷文書の年代 / p40 (0024. 20世紀初頭にシルクロードを探検した大谷探検隊の将来品を中心に展示します。クチャのクムトラ石窟で発見された塑像のほか、クチャのキジル石窟、トゥルファンのセンギム・アギス石窟、ベゼクリク石窟で発見された地獄図、敦煌莫高窟蔵経洞で発見された地蔵菩薩像をもとに. 探検隊を組織したのは、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代門主の大谷光瑞です。 光瑞は仏教界最大派閥の門主の息子で、生まれたときから1000万信徒の頂点に立つことが約束されていました。.

美術人名辞典 - 大谷光瑞の用語解説 - 浄土真宗の僧。西本願寺二十二世。二十一世光尊(明如上人)の子。法号は鏡如。学習院大卒。インド・ヨーロッパ諸国を外遊し、また三回にわたる大谷探検隊の派遣により、中国・シルクロードから貴重な仏教資料をもたらす。引退後は機関誌『大乗. 大谷探検隊ルート(東京国立博物館東洋館パネル展示) わたしは、この シルクロード の経路を、20年くらい前に逆に ウルムチ から カシュガル 、タシュクルガンに入り、 パキスタン に抜ける カラコルム ハイウェイのバス旅を経験しておりますが、光瑞の. 20世紀初頭にシルクロードを探検した大谷探検隊の将来品を中心に展示を行います。 今回は「博物館でアジアの旅 海の道 ジャランジャラン」(年9月4日(火)~9月30日(日))に合わせて、伝スバシ出土の舎利容器、トゥムシュク遺跡出土の塑像のほか、ベゼクリク石窟の衆人奏楽図. 第2次(1908年 - 1909年)は、橘瑞超、野村栄三郎の2名が派遣され、外モンゴルからタリム盆地に入りトルファンを調査した後コルラで二手に分かれた。野村はカシュガル方面、橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査した。有名な李柏文書はこの時に発見されたと見られる。. スタイン(Stain)を送った。彼は1913年から1916年にわたり前後三回の調査をしている。ホータン、チェルチェン、ミータンと南道ぞいの有名な遺跡を次々と発掘し、最後には北道にも回りトルファン方面での考古学調査をした。 ■ 大谷 探検 隊 スウェーデン. 大谷探検隊(おおたにたんけんたい)は、20世紀初頭に日本の浄土真宗 本願寺派第22代法主・大谷光瑞が、中央アジアに派遣した学術探検隊。 シルクロード 研究上の貴重な業績を挙げた。. 」をもつ『阿弥陀経』断簡の発見は、善導大師が『阿弥陀経』数万巻を書写して、自身の功徳と浄土教徒の受持読誦の勧奨に用いたという歴史的記述を実証するものとなった。 大谷探検隊の収集品は大谷コレクションと呼ばれているが、現在それは各国に分散し、また行方不明となっているものもある。 光瑞、自ら参加した第一回探検の収集品の一部は京都帝室博物館、今の京都国立博物館で展覧された後、そのまま預けられていた。そして光瑞が京都を去り神戸市外の二楽荘に移った時、収集品の一部も移され、そこでも展覧された。だが、直ぐに光瑞は旅順に移り、このとき発掘品の主要部分と蔵書を旅順に運んだ。発掘品の一部は旅順博物館に蔵書は満州鉄道図書館に寄託された。が後に蔵書は旅順博物館の所有するところとなった。この博物館は第二次大戦末期に一時ソ連に接収され、開放後に中国側に渡された。後に敦煌発見の経巻約600巻が北京図書館に移された. あろう。しかしその探検事業は、大谷光瑞の長期にわたる活動総体から見ればすべてでは なく、一部にしか過ぎない。従って、大谷光瑞像の総体を求めるには、「大谷探検隊」と ともに彼の行動の総体そのものに比重を移し、追究すべきであろう。.

10月4日から開催しておりました秋季特別展「二楽荘と大谷探検隊―シルクロード研究の原点と隊員たちの思い―」は、11月30. See full list on weblio. スタインに続いて中央アジアの発掘調査に乗り込んだのはドイツ隊で、彼らは主に西域北道のクチャやトゥルファンで調査を行った。その探検の中心人物となったのがアルベルト・フォン・ル・コック(似顔絵(09))である。 ル・コックは当初、ベルリン民族博物館の無給研究者に過ぎず、ドイツ隊の第1回探検(1902~03)には参加すら許されていなかった。ところが、第1回探検の後、隊長のグリュンヴェーデル(ベルリン民族博物館インド部部長)は病気、フートは急死という不慮の事態が起きたため、急遽ル・コックが第2回探検(1904~05)に抜擢されたのである。 ル・コックはバルトゥスと二人でベゼクリク千仏洞に向かい、そこで保存状態のきわめて良い壁画を発見して、ほとんど余すところなく切り取った。彼らは続いてキジル石窟でも壁画(10)を大量に切り取った。この壁画の切り取りを主導したのはル・コックであるが、実際の作業を担当したのは船乗り出身の器用なバルトゥスであった。せっせと彼らが切り取った壁画はベルリンに送られ、目覚しい「収穫」として高く評価されるとともに、ベルリン民族博物館を飾る一大コレクションとなった。 しか.

大谷探検隊の蒐集品は大谷コレクションと呼ばれているが、現在それは各国に分散し、また行方不明となっているものもある。 なぜ分散したのか、又行方知れ ずになったのかを・・・その辺の経緯を簡単に説明したいと思います。. この頃、イギリスとロシアの中央アジアにおける政策により、中央アジアがひときわ世界各国の注目を集めた時代であった。両国は中央アジアを両国勢力の緩衝地帯にしようと暗黙の了解の元に各種の地質学調査を行っていた。 ■ ロシア. 大谷探検隊(おおたにたんけんたい)は、20世紀初頭に日本の浄土真宗 本願寺派第22代法主・大谷光瑞が、中央アジアに派遣した学術探検隊。 シルクロード 研究上の貴重な業績を挙げた。. 橘瑞超、吉川小一郎の2名が、トルファン・楼蘭などの既調査地の再調査をはじめ、ジュンガリアでも調査を行うほか、敦煌で若干の文書を収集した。トルファン地域からは善導大師書写の識語「願往生比丘善導願写弥陀. 店主でございます。 皆さま、大型連休いかがお過ごしでしたか? 私は. 大谷探検隊第2次探検隊員の橘瑞超が、1909年にロプ湖北岸のローラン古址より発掘・収集した文書。 一般に「李柏文書」と呼ばれ、前涼国の使者が西域諸国を歴訪するにあたり、西域長史李柏がもたせた訪問先の各国王に宛てた書簡の草稿と考えられている。. 大谷 探検 隊 1902から1903年かけて仏教学者グリューンウェーデル(Grunwedel)を主班とする探検隊をトルファンに送り込んだ。又、1904年四月から1905年にかけてル・コック(lecoq)を送りトルファン文化圏で調査させた。発掘は大規模にわたり寺院址の壁画、塑像群、古文書、工芸遺品を多数得た。また、各地の千仏洞の美術史的調査も行った。さらに1905年の末から1907年6月までグリュンウェーデルが、クチャ・トルファン・カラシャールを調査したが、これにはルコックも一時参加している。ドイツの探検隊は、壁画を切り取りヨーロッパに持ち帰った。その技術と成果は良い意味でも悪い意味でも注目された。 ■ イギリス. 大谷探検隊の収集品を積んで進むラクダ隊 島崎藤村との不思議なかかわり 学術レポートは失われたものの、隊の様子は宣正が記していた日記である『印度霊穴探見日記』(霊穴は石窟寺院のこと)などに垣間見られる。.

こうした探検ラッシュのきっかけをつくったのは、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディン(似顔絵(4))のタクラマカン探検(ヘディン第1次探検:1893~97)である。地理学を学んだ彼にとって一番の関心事は、誰も足を踏み入れたことのない未知の土地を踏査し、地図の空白を埋めることにあった。また同時に彼は、続々と集められる古遺物や、タリム盆地に伝わる「砂中に眠る古代都市」の伝説にも魅力を感じていた。 彼の恩師であるリヒトホーフェンは、そんな彼に対して、探検の方向付けに関わる大きな示唆を与えた。アメリカ西部と中央アジア西部の乾燥化についての研究を進めていたリヒトホーフェンは、内陸アジアは地質時代には内海で、それがある程度乾燥した時にその周辺地域で文化が発生したのではないか、と考えており、その観点からタリム盆地に注目しヘディンに調査を促していたのである。 カシュガルのロシア領事ペトロフスキーがヘディンに見せたコータン(ホータン)地域出土の遺物は、彼をさらに後押しし、コータン行きを決断させた。そして、コータンから北北東にタクラマカン砂漠に踏み入った地点で、1896年1月半ば、流砂に埋もれた廃墟. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 大谷探検隊の用語解説 - 浄土真宗西本願寺派の第 22世の宗主であった大谷光瑞 (1876~1948) が,仏教研究の新資料発見を目的として3回にわたり中央アジアに派遣した探検隊。. 第一次探検隊に出たのは、大谷光瑞26歳。 近頃の所謂自分探しの気ままな一人旅と違うのよ、探検隊だもの。 責任がある。 外交にも関わる。 第二次探検隊には何と15歳の橘瑞超という少年がいる。 桜蘭で「李柏文書」と言うのを発見するなど活躍。. 大谷探検隊将来資料中のシリア語断片 高 橋 英 海 大谷探検隊将来資料中にはトルファンで出土したと考えられる3 点のシリア語断 片が確認される.残念ながら,本稿の執筆に際して断片の現物に触れる機会を得な.

1898年クレメンツ(Klements)をトルファンに派遣し高昌国の首都を発掘調査した。1909年から1910年にかけてはオールデンベルグ(Auldenberg)が調査している。彼は零細な資料を徹底的に探求し、破損寸前の壁画、彫像類だけを採集した。ドイツの探検隊とは調査方法が大きく異なり、事実壁画を多量に剥奪したドイツ隊を批判している。 ■ ドイツ. 大谷探検隊、世上知られております大谷探検隊はレジュメの1 に挙げました ように、第1 次、第2 次、第3 次と行なわれ、そこに挙げているものが一般に 流布しておる大谷探検隊であります。時代は20 世紀初頭、レジュメの2に示し. 探検家のライバルである、ヘディンやスタインらによる発掘もまた、後続の大谷探検隊を悩ませた。 彼らは国家という強力なスポンサーの資金援助のもと、大規模な発掘踏査が可能だったが、大谷探検隊には、西本願寺という一宗教団体の資金援助しか.

第一節 大谷探検隊の動向と文書の入手状況 / p15 (0011. 大谷探検隊とは ・浄土真宗本願寺派第22大門主、大谷光瑞が主宰した日本で初めての中央アジア探検隊です。 ・1902~04年、08~09年、10~14年の3次にわたり、ガンダーラ、インド、西城、中国に至るシルクロードの仏教遺跡を調査しました。. 第3次(1910年 - 1914年)は、橘瑞超、吉川小一郎の2名が、トルファン・楼蘭などの既調査地の再調査をはじめ、ジュンガリアでも調査を行うほか、敦煌で若干の文書を収集した。この際収集したミイラなどは当時日本が租借中の中国・大連の旅順博物館に所蔵されて、現在でもそこで公開されている。. 第1次(1902年 - 1904年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が赴き、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄の4名が同行した。光瑞はカシュガル滞在後インドに向かい、1903年(明治36年)1月14日に、長らく謎の地の山であった霊鷲山を発見し、また、マガダ国の首都王舎城を特定した。渡辺・堀は分かれてタクラマカン砂漠に入り、ホータン・クチャなどを調査した。別に雲南省ルートの探検が野村禮譲、茂野純一によって行なわれ、この途上で建築家伊東忠太と遭遇。これが光瑞師と伊東博士の交流のきっかけとなり、のち築地本願寺の設計依頼へとつながる。. 大谷探検隊が3回の調査で持ち帰った敦煌文書と中央アジア文化財は、最初、神戸郊外の六甲山にある二楽荘に収蔵されていた。 これは大谷光瑞伯爵が、探検隊が持ち帰った西域文化財を展示するために巨額を投じて建設した豪華な別邸だった(年)。. スタインやぺリオが敦煌において相次いで文書類を購入していたころ、中国はこれらの文書類の重要性にまだ気づいていなかった。気づいた時にはもはや手遅れ。中国の貴重な歴史文化遺産は国外に持ち出されてしまっていた。この最悪の損失に気づいた中国は、やがて外国人の発掘調査を警戒して堅く門戸を閉ざすようになる。 もちろん、敦煌の石窟から文書類が発見されたという報告は、すでに敦煌の役所に届けられており、そこから甘粛省の省都である蘭州の役所(藩台衙門)にも伝えられていたのである。ところが、敦煌出土の文書類をすべて蘭州に輸送するには馬蹄銀5〜6千両の輸送費が必要となるので、その費用を惜しんだ蘭州の藩台衙門は敦煌の衙門に対して、現地でそのまま保管するように通達を出した。こうして発見から7年もの間、敦煌文書は特に関心をもたれることもなく、石窟の中に積み上げられたままだった。 スタインがやってきたのは、このように文書が放置されていた時期だった。文書の価値を知らない王円籙は、実際の価値に比べればほんの僅かな金額で文書を売却し、その費用を彼自身が精魂を傾けていた石窟の修理に充てたのだった。続いてペリオも大量の文書を購入し、それを本国へと送った。 ペリオは購入した蔵経洞の文物を船積みして送り出すと、それらの収穫品が無事中国を離れたことに安堵したのか、文書のいくつかをもって南京、天津、北京(19)を歴遊し、著名な歴史学者の羅振玉を始めとする中国人学者たちにそれらを披露した。これを見て大きなショックを受けた中国の人々は、ようやく事態の重大さに気付いた。清朝政府は残された敦煌文書を守るため官令を出し、1910年には北京の京師図書館(中国国家図書館の前身)に移管する措置を取った。 ところが残余文書の散逸は、こうした官令にもかかわらず、その後もさらに進行していった。運搬過程では、蘭州など各地の地方官吏が、北京到着後は、接収に携わった李盛鐸らが、文書を抜き取ってしまった。また、敦煌文書はその後もかなりの量が現地に留め置かれていたために、1912年には日本の大谷探検隊(橘瑞超と吉川小一郎)が写経を数百巻、1914~15年に敦煌を訪れたロシアのオルデンブルグが計1万余点、まだ敦煌文書を買い取ることができ、それらの文書も中国の地を離れていった。 こうした敦煌文書の流出は、中国人学者の非常な憤りを引き起こした。そ. 大谷探検隊『シルクロード探検』長沢和俊編、白水社、新版年ほか; 橘瑞超『中亜探検』中公文庫、1989年; フィクションでの描写.

Rudolf)による解読の結果、紀元5世紀頃にまで遡る古い文書であることが判明した。それ以前にインドで発見されていたどの文書よりも古いものだったのである。それほどに古い文書が、インドではなくタリム盆地という辺境の地から出てきた、というのだから、その驚きは大きかった。 それまでタリム盆地(中国領中央アジア、シナトルキスタン、新疆)(2)に人々が抱いてきたイメージといえば、世界有数の山脈に囲まれた人を拒む不毛の砂漠、というものであった。このようなイメージは、タリム盆地に対する地理学的・地質学的な興味を惹き起こしていた。またタリム盆地は、西トルキスタンを併合してさらなる南進を目指すロシアと、インドを拠点に据えたイギリスが、互いに領有をめぐって睨みをきかせつつ清王朝に対峙しているという、政治的にきなくさい地域でもあった。ところが古文書の大発見がきっかけとなって、タリム盆地のもう一つの側面が突如としてクローズアップされるようになった。この地は、古い文化が栄え、砂漠の乾燥と砂がその文化財を保存してきたという、世界でも類を見ない埋蔵文化財の宝庫だったのである。 バウアーが購入したことからバウアー文書と呼ばれるようになったこの古文書の発見以来、タリム盆地西端のカシュガルに領事館を構えていたロシアとイギリスの外交官たちは、現地の宝捜し人(そのうちの一人、スタインの調査に参加.

大谷 探検 隊

email: [email protected] - phone:(291) 964-6159 x 5544

スポーツ ビジネス アメリカ - Love instant

-> 祈り の 幕 が 下りる 時 主題 歌
-> 守田 美穂

大谷 探検 隊 -


Sitemap 5

Prolog 本 -